佐藤祐二

株式会社エナブリング 代表取締役
1969年7月13日生(アポロ月面着陸の1週間後)
宮城県仙台市太白区秋保町

 

今の礎を築いた幼少期の体験

仙台の奥座敷「秋保温泉」のさらに山奥で生まれ、大自然の中でのびのびと育った。1学年10人の小学校では、夏は川泳ぎ、冬は雪山でのスキーやソリ滑りに明け暮れ、いつ勉強したのか記憶に無い。

ただ、その大自然からは多くの原則を教えられ、川で溺れないためには流れに逆らわず泳ぐ経験から「流れを利用する」コツを知り、崖から飛び込む経験は「決断力」に繋がり、雪山の頂上を見ずにただひたすら歩くことは「コツコツ努力する継続の力」となって今日の成功の支えとなった。

また、小学3年ごろに家族で移動する車の中で、何の話か「将来は金持ちになる!」と宣言した私に「ゆうじならなれる!」と無条件に肯定してくれた母親の言葉がその後の自己肯定感情となった。

 

 

人生を変えるメンターとの出会った青年期

小学3年生で当時流行していたYMOにハマり、以来、大学までは音楽中心の生活となる。中学では町内で初めてのバンド「石垣真一とロックイットバンド」を結成したり、大学ではBSヤングバトルで東北大会に選出されたりしたこともあった。地元ではちょっとだけ知られたキーボーディストであった。

しかし19歳でひょんなことから人生を劇的に変えるメンターと出逢い、学生時代にリーダーシップ、マネジメント、目標設定、プレゼンテーションといった、後の社会で役立つ様々な訓練を受けた。同時に、社会貢献への強い意識を叩き込まれた。

そんな影響から大学卒業後は自費で関西エリアにボランティアへ行き、学生時代に受けた訓練を実践すると同時に、人々の人生を変えるメンターとなるべく活動した。

 

更なる成長の機会を得た社会人

ボランティアから帰還後は、1.人に関われる仕事(理科系のオタクだったため)、2.健康に関する仕事(自身が学生時代に入院したため)、3.外資系の仕事(アメリカ大好きだったため)という条件で求職し、アリゾナ州に本社を持つアロエベラジュースの紹介販売を展開する日本フォーエバーリビングプロダクツ株式会社(現FLPジャパン)本社営業部で働き始めることになった。

4年半の在職期間中には、イベント企画やツール開発に携わる一方、エリアマネージャーとして現場での接客やセミナーを通して人々の成功をサポートした。

その後、アメリカの友人から「アロエより流行ってるモノがある」と聞き、「ノニ」と呼ばれるポリネシア産のスーパーフードを原材料としたノニジュースのパイオニア企業であるモリンダ・イナターナショナル・インク日本支社の初代営業部長に就任。

在任中の6年半マーケティングの責任者として活躍し、立ち上げから数年で年商200億円の大企業となる。2002年には「ノニ」のブランディングで功績を挙げ、自身が統括したチームで日本商工会議所会頭賞を受賞。20代から年収が1,000万円を超える。

その後、モリンダの役員が立ち上げたスーパーフード専門の新興企業のマーケティングディレクターとして非常に好条件で就任するも、独立を決意。

 

独立を決めた理由は5つ。

①もっと豊かになりたい
②もっと家族と過ごす時間が欲しい
③世界中好きなところで暮らしたい
④通勤や出社が不要な生活がしたい
⑤新興企業のため、急に業績が傾くかもしれない…

独立するも、、、見通しの立たない毎日

最初に友人と立ち上げた事業は、アメリカとドイツで特許を保有する生分解性プラスチックの総代理店事業だった。大手商社と競いながらも奇跡的に日本での権利を獲得し、投資家から資金を集めて事業を開始した。

しかし間もなく、日本、アメリカ、ドイツの3カ国に跨がる業務は多忙を極め、家族と過ごす時間どころか、寝る時間も犠牲にする状態だった。さらに、豊かな生活を求めながらも、事業が軌道に乗るまでには時間がかかるばかりか、多額の先行投資が必要で、豊かになる見通しも立たない日々が続いた。

豊かにもなれず、家族との時間も取れず、事業に時間も身体も縛られ、しかも将来の成功は約束されていない、、

「これでは何のために独立したのかわからない…。」<br/>「独立したのは失敗だったのか??」

という想いが頭の中によぎる毎日だった。

そんなある日、「金持ち父さん、貧乏父さん」で著名な投資家、ロバート・キヨサキ氏のキャッシュフロー・クワドラントという概念を知る。

それは、自由とお金を手に入れている豊かなお金持ちはそのほとんどが、「不労所得と権利収入」を得ている、という話だった。

その一方で自分はサラリーマン時代から独立後も一貫して、当たり前のように「働くことによって」お金を稼ぎ続けていた。

逆に言えば、働かなければお金は1円も入ってこない状況だった。

これでは真の自由は手に入らない!と一念発起し、「不労所得と権利収入」を得る仕組み作りに舵を切り始めた。これが私の大きなターニングポイントになった。

結果、1年半で月収7桁を超え、時間と経済面で自由になり、住む場所にも囚われない生活が始まった。更には得られ続ける権利収入を元に2014年からは家族7人で渡米し、アメリカンライフを満喫することとなった。

 

 

そして、現在…。

アメリカで生活して2年目の頃、以前勤めていた会社の創業者が退職し、新しい事業を始めると耳にした。私自身、ちょうど日本にいる仲間たちにもっと良いビジネスチャンスを探していた時だったので、すぐにアメリカで会う約束をし、彼の理想と可能性に感銘を受け、即座に事業への参加を決意。その年の夏には、この事業を拡大するため日本に帰国し、現在に至る。